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トナザリナは盆地の街だ。どっちを向いても荒々しい稜線を描く岩山が覆いかぶさっている。石灰岩で成る山々の肌はところどころ白く、一見して雪山のように見える。
そんな色の無い遠景を背に、青や橙や紅の、春の花のように鮮やかな色の屋根を乗せた家々が密集している。漆黒のタイルが幾何学模様に貼られたナマコ壁や、切り出したそのままの色の石畳を敷き詰めた往来が、対比の妙をより際立たせる。
「街がきれい」
パラがため息をもらした。
夜行乗合自動車を降りて、街の空気を吸って、彼女はしきりにトナザリナの街並みに眼を輝かせている。口笛とともに、前髪を吐息でふっと吹く。さきほど化粧室でブラッシングしたばかりの、ちょっとくせっ毛の栗色がふわりと舞った。
「ね、レジェさま、わたしこの街すきだわ」
「寝不足でくるとキツイけどね……」
「もーう、だからちゃんと寝ないとダメだって云ったのに」
「……そんなこと、云われたっけ」
「云ったよ〜」
ぽむぽむと肩を叩かれる心地良い軽さを感じながら、レジェは唇をとがらせた。ゆうべのオムニバスで眠れなかった眼をしきりにこする。寝不足にぼんやりした頭に原色の彩りは毒である。一歩踏み出すたびに目がチカチカした。
「パラは元気でいいけどね」
「うん、わたし元気!」
「ちぇ、ソプラノは寝不足の耳によく響くぜ……」
レジェはアクビまじりに悪態をついた。
「レジェさまだって、そうじゃない」
「……そうだけど……」
そのことば尻に、またアクビがまつわり付いた。
馬の蹄のような半円のアーチを抜け、駅所前通りの緩い下り坂を歩くと、やがて四ッ角に突き当たった。交差する路ぎわに並んでいる建物には雁木が張り出し、街の主要な往来の観である。道幅も広い。
その路の上を、黒光りするものが右から左へとゆっくり横切って行った。前後の頭部に、カブト虫のように先端の分かれた大きな角が上を向いて突き出ている。
「な〜に、あれ。昆虫みたいなの」
「路面軌道車だろ」
今度は左からまた一台やってきた。スピードを緩め、金属を研磨するような音をたてて停まる。石畳に刻まれた鉄のわだちの上を走っているらしい。
「これ、路面軌道車なの?」
「だから、トラムだって」
「へぇ……。面白いんだ。ウェスト=シティには、無い乗り物ね」
「まだ自家用車が出回っていないんだろ」
「そのほうがのどかでいいわ。オートが自分勝手に走り回ってるのって、ギスギスしちゃってイヤだもの」
パラの云うことに、レジェはうなづいた。
2台目のトラムは信号待ちで停車しているようだ。交差点の手前でじっと留まっている。2人はその姿態をゆっくり観察した。
ところどころ甲冑のようにビス留めされた漆黒のボディ。一列に並ぶ円形の窓。丸っこく下ぶくれな顔つきに勇壮な印象を与えているのは、やはり“角”である。
「あの角、どういうの?」
パラが訊いた。
「あれは、空気中からスルツキーを取り込む触覚」
「するつきー?」
「気体かなにかの名前だろ。ぼくらが酸素で呼吸して生きてるのと同じで、ああいうのはスルツキーで呼吸して動くんだ。前の角からスルツキーを取り込んで、それを分解して原動力にして心臓を動かす。で、いらなくなったガスは後ろの角から放散する」
「へぇ……おもしろいんだ」
「オムニバスや汽車と違って油を燃やすわけじゃないから、煙も出ないしね」
「そうなの?」
信号が切り替わったらしく、カブト虫のようなトラムは、盛りのついた猫の鳴き声に似る独特の作動音をたてて発車していった。たしかに排気ガスらしき気体はどこからも出ていない。
「煙が出ないなら、キレイでいいわね」
「でも、最近この手の駆動方式はやめだしてるところが多いけどね……」
「どうして?」
「さぁね。詳しくは知らないけど、国で決めたことなんだって」
「ふぅん」
また逆の方向から角を突き出してやってきて、やはり信号で停まった。黒光りのする車体は本物のカブト虫さながらだ。そういう意匠なのだろう。車体の脇腹に、角のデザインされたマークとともに「甲虫」とクレジットされている。
「ね、レジェさま、あれに乗ってみましょ!」
「そうしよっか」
もとよりレジェもこの風変わりな路面軌道車に興味津々である。乗るのは右行きも左行きもどちらでも良い。初めからどこへ行こうという目的もないし、街の地理や交通の路線網もハッキリ把握しているわけではない。行き当たりばったりの逍遥なのだ。レジェはそういう街歩きが好きだった。
いまの甲虫が停まっている道の先を見ると、ちょうど乗降所のゼブラゾーンがある。2人はそこへ小走りした。
乗降場に立つと、トラムはやおらこちらに追いついた。行先表示に「東下り」と書いてある。ガリガリと音を鳴らしながら、つんのめるようにして停車した。2枚の戸板を組んだ引戸が一枚ずつ緩急をつけて戸袋に引っ込み、かわりにステップが下部からせり出して、2人をなかに招く。
車内は空いており、木とニスのにおいで満ちていた。窓を背に配された長椅子に並んで坐るとお尻がふかりと沈み、ゆったりと包み込んだ。真鍮の手すりが窓外から差し込む朝陽を浴びて、ほのかに鈍く光っている。今日もいい天気だ。
後ろ側の運転台で車掌が手持ちのベルをチリンチリンと鳴らすのを合図に、トラムはガタピシと盛大に物音をたてながら鉄のわだちの上をゆっくり滑りだした。
レジェはもう舟を漕ぎ始めている。
「レジェさま、まだ眠たいの?」
レジェはとろけそうな眼付きでコクンと頷いて、無言の返答とする。パラのパールホワイトのブラウスの肩が、おかしそうに震えた。
「なら、わたしに寄りかかって寝てるといいわ」
少年はにわかに眼をしばたかせて背筋をのばした。
「……遠慮しとく」
「えー、どうして?」
「どうしても」
レジェは、この寝不足の原因が何かパラに判らせてやりたいと思い、そして同時に、そうしてはマズイとも思う。勝手に熱さを増していく耳たぶが山高帽に隠れることが、つくづく幸運に感じられた。
トラムは店屋が軒を連ねる街路を、一歩一歩踏みしめるようにトロトロと歩む。
車窓の高さにあわせて商店の看板が並んでいる。家々の屋根同様やはり色とりどりで、少しも褪せた様子がない。景気の良さを窺わせた。けれどそのわりに人通りは少ない。朝とはいえ意外なことで、レジェは少し首をかしげた。
猫が遠吠えするような音質が床下で唸りを上げると速度が増し、ガリガリと金属を削るような音がすると減速する。そうして乗降所に停まったり通過したりする。それを繰り返す。車掌が乗降所名を喚呼する。その調子が北方風になまっているのも、2人にとっては珍しいことのひとつだった。
「このトラム、どこまで行くのかな?」
ふとレジェが云った。
「レジェさまに分からないことは、わたしにはもっと分からないわ」
「街も歩いてみたいし、そろそろ降りようか」
「そうね……。足賃はいくら?」
「乗車賃無料って書いてある」
窓の上にかかった掲示のひとつを指差した。
「無料なの!?」
「そう、タダみたい。おおかた、街のほうで世話してるんじゃないかな」
「それなら、行けるところまで行ってみない?」
「飽きないの?」
「ぜんぜん!」
パラは胸を反らして、自慢するみたいに云った。
車窓はどんどん動いていく。瓦礫のようなさざれ石の目立つトナザ川の清流を石橋で渡ると、川沿いの横町に天幕を張った露店が並んでいるのが見えた。街路市らしい。まるでお祭りのような人ごみができて、賑わっている。
「朝市かしら?」
「だから、街に人がいなかったのかな」
軌道は横町に向かって急なカーブを描き、甲虫は横町へずんずん乗り入れていく。2人は顔を見合わせた。車窓は一変し、露店に並ぶ品々やそれを吟味するオバサンの背中が窓すれすれにきた。人々の活気。ふんだんに並んだ木の実や蔬菜や、各種の小物類。カラフルな原色に染められた天幕の色。そうしたものが窓にちらちら揺れ動き、花盛りである。
「レジェさま、おもしろそうだわ」
「やっぱ、降りようか」
「うん!」
天井からぶら下がっているベルの紐をひっぱり、降車の合図とした。果実を売る露店の目と鼻の先にチョコンと用意された小さな乗降用の台の前に、トラムはぴったりと停まった。降りる人は2人のほかにも多く、お客さんの半数近くが腰を上げた。
まちかねたように扉が開くと、朝市の熱気がわっとデッキにまで押し寄せてきた。
――続く