小松駅、そして白峰

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 あれは、小学校一年生のときだったか。母とぼくと、それに野町の祖父母の四人で、バスで小松まで連れて行ってもらった日のことを憶えている。いや、小松までバスに乗せてもらったといったほうが正しいか。当時からバスにいたく興味を持つ子どもだった。小松という地へ行くことよりも、小松ゆきのバスに乗ることのほうが大事という、そんな子どもだった。
 こういうお出かけは、滅多にないことだった。だいたいが、家族旅行というものをまったくしない家庭だったのだ。とくに、野町の祖父母とどこか遠くへ出かけたという憶えは、いまから話すふたつの旅行をのぞいては、ほとんどない。そのころまだ片町にあった大和デパートへ行くだけでも、ちょっとした旅行気分に浸れたほどなのに、見知らぬ小松という土地まで出かけるというのだから、幼な子にとって冒険にも等しいことだったといって悪くはないだろう。
 この小松行はたしか、小松基地で年に一度の航空祭がひらかれた日のことだったはずだ。それで、この機に重い腰をあげて、子に戦闘機を見せてやろう、という思いが母らにはあったのだろうと、いまのぼくは想像する。けれど、子たる当時のぼくは、未知の街である小松までバスに乗れるという喜びがあまりに膨らみすぎて、飛行機、飛行機と云われたところで、なんら興味を持てなかった。
 小松ゆきのバスには、野町からではなく、ひとつ手前の広小路から乗った。小松ゆきは快速だから、野町には停まらないので、広小路から乗らなければならない、というのが祖父の弁だった。しかし、広小路から乗った小松ゆきは、予想に反して、野町にも停まった。昭和56年にできた普通便を、祖父は知らなかったのだった。普通便だとわかると、野町の祖母は、なおよかったいね、とぼくに云った。停まる停留所の数が多くなるからである。ぼくは車内放送の声に耳をかたむけたり、前部の運賃表を見に行ったりして、停留所名をいちいち祖父につたえていった。祖父はそれを手帳に書きとめていく。帰ってから、それを基にして金沢小松間のバス路線図を書くという約束だった。金沢地区のバス路線図は、松任から先が省略されていた。松任から先のぶんは、自分が新発見して書くのだ、という気概がぼくにはあった。

 バスの終点の小松駅からは、空港連絡バスに乗って、十分ほどで小松空港に着いた。連絡バスは、いまとは違って、金沢からの特急リムジンにつかわれる車輌が流用されていた。途中の停留所は、猫橋、竜助町、西町。いまでも憶えている。観光バスの型なのに、車内に降車ブザーボタンがあるという、それが不思議だった。バス遠足で乗り慣れている観光バスには、そういう設備はない。
 空港のロビーから、航空祭のショーを眺めたと思う。屋外から見た記憶はないからそう云ったのだが、記憶は残っていないだけかも知れない。ただ、空がくもっていたけしきだけは鮮明である。また、戦闘機目当ての観客が、かなり多かったことも憶えている。子供連れも多かったはずだ。飛行機や、飛行機や、とさわぐ少年らを見て、ぼくは、こんなモンを喜んどるなんて、ガキやなぁとひそかに嘲笑していた。バスで喜ぶ自分は高い棚の上だった。あぁ、ぼくも子供らしい子供ならば、戦闘機に興味を示してしかるべきなのだが、興味はバスだけにあったのである。事実、戦闘機についての記憶はほとんど残っていない。行きのバスの車窓、車内の風景、母や野町の祖父母とかわした会話、それらはありありと想い出せるのに、である。
 野町のお里へ帰ってから、さっそく祖父に大きな模造紙をもらって、楽しみにしていた路線図づくりをはじめた。長四角の枠を並べ、それらを線でつなげ、枠のなかには停留所名を書き入れていく。野町のお里から帰るまでに完成しなかったので、続きは家まで持ち帰って書いた。そのさい、わざわざ停留所名についての電話を野町にかけている。〈荒屋〉の前の停留所の名は〈高堂〉で良かったか、という内容だった。

 母と野町の祖父母には、その後日、白峰にも連れて行ってもらっている。ぼくはもう、二年生に上がっていたかも知れない。そのころ、白峰ゆきという、どうやらすごいところまで時間をかけて走るバスがあることを知ったばかりだったと思う。
 白峰ゆきのバスをはじめて見たときのことを、いまでも憶えているが、野町の南大通りを母の手に連れられて歩いていると、なにかの拍子に、「白峰」と行き先を出したバスが走りすぎていくのを見た。その行き先表示に、眼をうばわれたのである。「白峰」とだけ書いてあるのだ。路線番号はおろか経由地もなにも表記はない。ただ「白峰」とだけ書いてある。堂々たる凄みがあった。ぼくはたちまち魅了されて、しきりにシラミネシラミネとくりかえすようになった。また、側面の経路表示にある、「白山下」という聞きなれないバス停名が気に入ったので、しばしばその名を紙に書き出したりもした。こういうことを野町の祖父母が見ていて、ならば、興味を示している白峰まで連れて行ってやろうということだったのだろう。
 白峰は、白山麓の五ヶ村といわれる村々のなかでも、白山を間近にのぞむ最奥の地にある。手取川の段丘上に家々が軒を寄せ合うさまを見るだけでも、雪深くきびしいこの地の冬を想像することはできる。ごくちいさな村である。いまは〈白山市〉というひとつの広い市の一部に埋没してしまったけれど、あのころは〈白峰村〉というひとつの名のある村だった。
 白峰まで、野町から一時間ほどかかった。野々市をすぎて、鶴来をすぎると、すこしずつ谷が狭まり、手取の流れが道に寄り添うようになる。黄門橋、不老峡、瀬波橋。谷に架かる野趣のある橋を渡り、あの白山下も経由した。小屋の陰にバスが一台待機していたが、それが鉄道金名線の旧駅舎と代替バスだとは、そのとき知りはしない。金沢では見かけぬ、古い型が尻を向けて一台やすんでいる後姿を見たというだけである。
 尾口村にはいって、仏師ヶ野ぶしがの口の落石覆いをぬける。鉄骨のあいまから、川面がコマ送りのようにチラチラ流れていく。それが途切れたころ、右手に見えてきた女原大橋が圧巻だった。この橋は、集落と川をいっしょくたにまたぎながら、対岸の山の中腹まで傾斜しながら架かっている。橋脚はいったい何メートルあるのか分からない巨大な姿だった。おさないぼくの眼は、こんな橋をうつしたことなど一どもない。天への架け橋を見たようだった。バスは右にカーブを切りながら、風景をぐいと引きつけ、いましもその橋を渡ろうとしている。そして、渡った。右窓のはるか下のほうに、くぐりぬけてきた落石覆いの道が、崖にへばりつくように曲がりくねっていた。ためいきが出た。
 車窓はひとはばの絵巻だった。手取ダムのダムサイトも、広大なダム湖も、連続するトンネルも、狭い一本橋の桑島大橋も、すべてが眼にあたらしい感動だった。

 バスの旅をたのしんで、白峰の停留所で降りたあとは、折返しの発車まで二時間ほど時間があるので、リュックにつめてきた弁当やおやつを、国道沿いの空き地に敷き物しいて食べた。遠足気分の団欒だった。野町の祖父は、帰りにトチ餅を買わにゃ、と意気込んでいた。そのころかなりヒステリックになってきていた母も、青空のしたでやわらかく笑っていた。この白峰行が、母や、野町の祖父母との最後のお出かけになるとは、まさかそのとき思いもしない。ぼくはその日、しあわせだけを感じていたものだ。
 母とは小学二年の春に別れ、野町の祖父母とは、そのとき以来いちども会ってはいない。その後の消息も、ぼくは知らない。







   06.06.12 脱稿

Mori Saketen.com

 


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