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赤々と燃える暖炉ストーブの焔が、常夜灯だけにした部屋のなかを、ほんのり暖色に染めている。
初めてのはずの部屋なのに、暖かく包まれたその空間のなかにとても安心できたみたいで、あれから制服のカッターシャツを着たきり眠ってしまったらしい。
ゆうべの果実の味が、唇のへりに甘い。
醒めかけのまどろみのなかで、夢のなかから響いているピアノの音色が、妙に熱っぽくなっている耳にゆったり届く。
いつか聴いたことのある気のする旋律だ、と僕は思った。
どこで聴いた曲だっただろう。そんなことを考えながら、鼻先まで掛けた毛布の間から移ろわせる視線のさきに、ピアノを奏でるメグミ先輩の姿があった。
鍵盤を舞う、長いその指。その横顔に、その眼差しに、胸がじわりと熱を持つ。
ゆったりとしたベージュのガウンに白いからだを包み、細く艶のある後ろ髪がきれいで。おもわず見とれてしまう。
メグミ先輩、と声をかけたくて、でも、それはやめた。曲はまだ終わっていない。
――この曲は、なんだろう。
背中がぞわぞわするくらい懐かしいそのメロディに、どこで聴いたんだっけと、またそんな想いを馳せながら目蓋をとじて、まくらに沈んで洗髪料の香りを吸い込む。
眠りに落ちるかという頃になって、曲が静かにエピローグを迎えた。
もぞもぞと半身をひねり、毛布から顔を出す。メグミ先輩が、こっちを見ていて、思わず心が波立った。
「起きちゃった?」
メグミ先輩が、にこっと笑う。
「朝ですか?」
僕が眼をぱちぱちさせながらそう問うと、おはよう、と先輩が云ってくれたから、僕もおはようございます、と返した。
「まだ2時半よ、トマヤくん」
えっと思って、眼をこすりながら壁の振り子時計を見つければ、針は普段なら明るい日差しを浴びる時間に見るような配置についている。
「イジワルですね。こんな時間に、ピアノなんて」
僕が毒づくと、メグミ先輩はいたずらな微笑みを見せて、
「あなたが死んだように眠っているから、怖くなって」
そうつぶやきながら、曲のさわりを軽く弾きだした。
ゆったりと空気にとけて、たゆたうみたいなセレナード。たおやかで、けれど熱い想い、至上の愛。そんなものも感じられる音の上下。
「いい曲ですね。なんていう曲でしたっけ」
僕が問い掛けると、先輩はふしぎそうに小首をかしげ、演奏をやめてしまった。
「トマヤくん、この曲を知っているの?」
「聴いたことがあるような、気がするんです」
「本当に?」
「本当、です」
「……ふふっ。耳になじんだのね、この曲が」
先輩が不敵なネコみたく笑うので、僕は、本当に本当です、と語気を強めて云った。
「もっと聴かせてくれませんか? 懐かしいから……。この曲、すごく」
「そうなの?」
メグミ先輩は、こっちを見てくすりと笑う。それが僕にはすこし不満だったけど、泣いてしまいそうなほどにやさしいピアノが耳に響きだせば、すごく気持ちが落ち着いて、うっとりしてしまう。眠ってしまわないよう、上半身を起こして瞳を閉じる。
金属の弦を弾いただけの音がこんな風に響いて集まり、なんでこんなに人を感動させるものになるのだろう、と思う。
その抑揚が心を揺り動かして、遠い記憶を揺り起こす。
懐かしく感じる曲。記憶のなかにあったそれをなぞるみたいな音の流れとともに、僕のなかに映し出されてくるものは。
どうしてだろう。幼いときに、遠くへ去ってしまった人。その横顔。
あれはずっと子供の頃のことだったから、もう声さえも忘れてしまった。
けれど、抱いてくれたときのぬくもりや、ねむるときに弾いて聴かせてくれた、あのピアノの音色は、いまでも。
想い出は薄れるものでも、あの旋律だけはなぜか残り、消えることなどなくオルゴールみたいにエンドレスして。
心のなかに刻まれていた五線譜を、今たどっているようなメグミ先輩のピアノを聴けば、想い出がゆっくりと廻りだす。
あの曲に似ている。
胸に伝わるものは。
熱い想い。至上の愛。
ふいに暖炉ストーブがコポっと鳴いたのが聞こえて、ああ現実のなかにいるんだと認識すると、ピアノの音色はこんなに心地良いのに、僕はそこはかなく不安になってきた。
「先輩は、どこにも行かないでくださいね……」
そう夢見心地でつぶやくと、メグミ先輩は一瞬びっくりしたような顔をして。
演奏の手を止めて、慈しむような視線を送ってくれた。
「トマヤ。」
すっと立ち上がり、ベッドの端に腰掛けてくれて。
「―――。」
抱かれると、やさしい鼓動。ゆうべを想い出す。
背中や首すじをゆったりと撫でられ、唇が落とされる。深い夢へと沈みこんで行く――。
メグミ先輩。その睫毛。その指先。
僕の思考は、手の平に落ちた雪のように。
頬をしずくが伝わる。ずっと昔に、味わった気のするぬくもり、香り。
けれど、味わったことなどあるはずのない甘美さ。
* * * * * *
「このまま夜更かししちゃおうか、」と訊かれて、ハイと頷くと、先輩は、ちょっと待っててと云い残してどこかへ立ち、しばらくするとお茶を満たしたカップをふたつ持ってきてくれた。
甘い香りのする紅茶は、云いもしないのにミルクたっぷりで。僕の好みを、このひとは知っていたのだろうか、と思ってしまう。
ふと、なにからなにまで馴染みすぎるくすぐったさに怖くなって、いたずらに「お酒が飲みたい」と云ってみると、先輩は眼を丸くした。
「10年はやいわね、トマヤくん」
そう云って、僕の鼻先にティーカップを突き出す。
対等の立場で見られていないのに僕は面白くなくて、10年じゃなくて6年、とつぶやいて、メグミ先輩だってあと3年。と唇をとがらせた。ゆうべのお酒を、彼女がくいくい飲み干していたことを指摘したつもりなのだ。
メグミ先輩は、困ったコね、と呆れたみたいに云うと、台の上に出したままになっていたワインの壜を手に取った。
「そだち盛りのコは、飲んじゃいけないのよ」
そうは云いながらも、布で磨いたワイングラスに僕の分の液体も注いでくれて。トクトクという小気味いいリズムに、熟れた果実の香りに、夢ごこちになる。
お礼を云って受け取り、ベッドサイドに並んで掛けて、じゃあってことで2人で乾杯した。
ごく度の弱いロゼで、とろりと甘い。けれど後口に残る酸味と苦味が、コドモの飲み物じゃないんだと思わせてくる。
「おかぁさんと、よく飲んだんです。ブドウジュースを」
酔いが舌の滑りを助長させるのか知らないけど、なぜかそんなことを想いつくままに、胸にとどめず口にしてしまう。
「このジュースは、高価いのよ」
メグミ先輩の吐息はほのかに甘ったるくなってきて。その香りに、僕はなぜかおかぁさんを想い出した。お酒の飲めない人で。お正月のお屠蘇であかくなるくらい、お酒がのめなくて。身体が弱かったからかな、と今になって思いかえす。
「おいしい? トマヤくん」
「―――。」
「……ん? どう、」
先輩に問われたことにやっと気付いて、慌ててうなづく。
酔っているんだ、と思う。じぃんとオナカが熱くなって、めまいみたいにクラっとして。
「あかくなって」
バカにしたみたいに先輩が指摘するので、僕も、
「先輩こそ、」
と笑ってやった。
そんなやりとりをしながら、グラスの液体を舐めていると、やにわにメグミ先輩が顔を近付けてきて。僕はどきっとして、もじもじと俯いた。
額に軽くついばんでくれて、その熱さに僕もそろそろと手をのばしかけると、先輩はなぜか物悲しそうにため息を落とした。
「先輩?」
メグミ先輩は、長い睫毛を伏せている。
「あなたを見ていると、想い出すわ」
「なにを、ですか?」
「ふふ、……」
そんなあいまいな返答に、僕はなんだか面白くなくて、頬をふくらませた。先輩が、その頬に唇を滑らせてくれる。
どきどきしながらも、お酒のためにどこかへ沈み込んで妙に落ち着いている意識が、そこじゃなくて、とせがむ。
透明な糸とともに熱が離れて、思わず物足りなさを訴えるように視線を上げると、
「あたしね、すきなひとがいたの。むかし」
と、彼女は思いがけずそんなことを口ずさんだ。
「あたしが12のとき、そのひとは14で」
メグミ先輩は眼を伏せながらそんなことをつぶやき、無理につくってるような笑顔を見せると、自分のグラスに2杯目を注ぐ。
「やさしいひとでね……。かわいいひとだった」
「――――。」
「年上なのに、年下みたいなひとだったわ」
僕は、僕の知らないひとのことを話す先輩に、もやもやした不満のようなものを感じて、
「むかしのことでしょ、」と、突っぱねるような口調で云ってしまった。
「そうよ。――むかしのはなし」
先輩が頭を撫でてくれたから、僕もおかえしとばかりに細い髪の毛を梳かす。
メグミ先輩が、くすぐったそうに笑う。
「そんなところも、似ている」
「――?」
「そのひとと、あなた。似ているのよ」
僕は、そんな言葉に一瞬うれしくなって、でも一瞬あとに、なんだか釈然としない気持ちになってしまった。
オナカの底がじわりと燃えるようで、それはお酒のせいなのかも知れないけど。やっぱり堪えられないくらい。
――そう、嫉ましい。
そんなわけの分からない気持ちをどうにかしたくて、しゃにむにワインを飲んだ。
「14歳だった。あのときのあのひと。だから、今のあなたと同い齢だったってこと……」
「―――。」
それが何だよ、と思ってしまう。ワインは甘くて、苦い。
「だからかしら、年上と年下で目線は違うはずなのに、重ねてしまう」
メグミ先輩は、カラになった僕のグラスに淡いピンク色のロゼを注いでくれて、僕はぐらぐらする視界のなかで、壜の美しい意匠に見とれたりしていた。
「……兄だったの」
メグミ先輩は、低い声でぽつりと告げた。
僕はグラスの縁を指でなでながら、コクリと唾をのんだ。
「兄だったの、そのひと」
メグミ先輩は、自分をあざけるように寂しく微笑んでいる。
僕は、彼女が云ったことを反芻して、でも意味がなかなか掴めなくて。ただグラスの縁をなでていた。
僕がどんな顔でメグミ先輩を見ているのか、もう自分では判らない。
ただ云えるのは、単なる驚きだけでは決してなくて。
もちろん、さいなみなんかじゃ絶対になくて。
「それは、いけないことだって知ってたわ。互いに愛しすぎていたからとはいっても、越えてはいけない一線は、ある」
僕は黙って、グラスを傾けていた。そうするほか無かったから。
暖炉ストーブが、ぱちっとはぜる。
「だからかしら。兄が夭折したのは」
「――――」
「……それは、罰なんだろうと思う」
メグミ先輩はワイングラスを傾けて。かたちの良い唇が、ピンク色の液体に潤う。
うつろにメグミ先輩を見ながら、融けていくような思考のなかで、同じだ、と思った。
僕と、僕の母と。
ごめんね、ヘンなこと話しちゃって、と、眼のあたりをこすりながら照れたみたいに笑う彼女に、僕は何ていったらいいのか分からなくて。ただ、ノドが渇いて、むしょうに水が欲しいな、とだけ思った。
「もう酔っちゃった?」
首をぶんぶん横に振ったのだけど、先輩は、酒飲みほどそんな風に否定する、なんてささやいて、僕の耳朶をあまく咬んでから、スッと僕の身体をベッドに横たえてくれて、毛布まで掛けてくれた。
アリガトウと云おうとして舌がもつれて、これって酔ってるんだな、と妙に納得していると、もう先輩はピアノに向かっていた。
「この曲ね、兄のためにつくった曲なのよ」
懐かしくなるそのメロディに、背中越しの独り言めいた先輩の言葉がかぶさり、それは曲調に乗って、歌のように聴こえた。
知らないはずなのに、どこかで知っているように感じた曲。熱い想い。至上の愛。
きっと、むかし聴いたあの曲も、僕のための曲だったんだろうな、と、根拠も無いことを思いながら、僕はゆっくり目蓋を閉じた。